こちらは北部九州にある盆地「日田」です 安倍宗任ファン倶楽部
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生まれ育った大分県日田市んコツを書いていこうと思おチョリます。素人が書きヨリますから、間違ごうちょるカン知れんですm(__)m
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時間があったので糸島遠征 浜窪の安倍さま 後編
それでは  それでは

それでは、浜窪の安倍さまをあとにしましょう。
この石祠の左側に祀られている自然石はなんなのでしょう?

浜窪に面する海  浜窪に面する海

ではなぜ、浜窪に安倍宗任のものと云われる墓が建立されたのでしょうか?
今回はそのお話です。

安倍氏といえば、平安時代(794~1185)に奥州(現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部)の土着の豪族で、奥州各地に柵と呼ばれる城砦を構築し、朝廷の力も及ばぬ半独立勢力を誇っていました。
朝廷より奥州平定の命を受けた源頼義みなもとのよりよし(988~1075)義家よしいえ(1039~1106)の親子を中心とする軍勢は北上した。
鎌倉幕府を開いた頼朝よりとも(1147~1199)は義家の玄孫になります。
迎え撃つのは安倍頼時あべのよりとき(不明~1057)とその子の貞任さだとう(1019~1062)宗任むねとう(1032~1108)ら兄弟の安倍一族
序盤は安倍氏側が優勢に戦い続けていましたが、出羽の清原氏が朝廷側に助力した影響で流れが変わり、安倍氏は敗れます。
この一連の戦いを前九年合戦(1051~1062)といいます。
この戦いで安部頼時、貞任ら安倍一族のほとんどが戦死。宗任は生き残りましたが、その身は伊予(愛媛県)に配流されます。
しかし、宗任が伊予に配流されていた3年間で本国の奥州に逃げようとする動きがある、少しずつ力をつけている、とされ福岡県太宰府に再配流、さらに大宰府から同じ福岡県の宗像市大島という島に再々配流されました。
宗任は大島で最後を迎えたといわれ、宗任が建立した寺に墓が残っていますが、大島を出て活動したのか大分県の大分市、別府市、杵築市、福岡県朝倉市等に宗任の伝説が残り、宗任の末裔は松浦水軍の祖との説もあります。

奥州安達ケ原おうしゅうあだちがはらは、宝暦12年(1762)9月に大坂は竹本座にて初演された人形浄瑠璃の演目で、前九年合戦を中心に、安達ヶ原の鬼婆伝説などを織り交ぜ、浄瑠璃作者の近松半二、竹田和泉、北窓後一、竹本三郎兵衛らの手で作られました。
後に歌舞伎や文楽で上演され人気の演目となっていました。
全五段にわたる演目ですが三段目にあたる環宮明御殿の場が上演されることが多く、現在も袖萩祭文の通称で上演されています。
平安時代末期に陸奥の国で繰り広げられた前九年合戦のあとが舞台です。
奥州安達ケ原では戦死した貞任が舞台に上がるので創作芝居という事になります。
 その昔、この浜窪で大阪役者を招いて野芝居が興行されました。娯楽が少ない農村では野芝居は大変な楽しみで、村人が歓び興行の日には親戚や知人なども招き酒や弁当を持ち込んで、一家総出で楽しみました。
 この日も野原に芝居小屋が建てられ。各所には幟が立ち並び、菓子やおもちゃなど売る多くの露店も出てにぎわっていました。芝居小屋からは太鼓や三味線、拍子木が鳴り渡ってくると、開演を待つ人々の心を浮かせていた。その上、今度の芝居は有名な「奥州安達ケ原」だというので、一段と盛り上がっていた。
 奥州安達ケ原の二段目は安倍安方の鶴殺しの場面。
安方は安倍貞任の一子・千代童の難病を直すには鶴を食べさせるとよいと聞き、禁制の鶴を殺して見つかり、罪人となった。貞任の弟・宗任は安方の身代りとなって、罪人として京都へ引かれたのだが、実は京都に出て源義家こと八幡太郎義家を刺そうというのが本心だったのです。
 三段目は義家が宗任の罪を吟味するため、宗任は義家の側室の父・直方の館に引き出されたという場面。
 カチカチカチと拍子木の音が弾み、幕が開くと舞台中央には義家がいて、側室の両親である直方夫婦と、縄を掛けられた宗任が下手に控えている。直方は環宮たまきのみやのお守り役であるが、その環宮を何者かに奪われていて苦しんでいた。そこへ、直方の娘で貞任を探して諸国を流浪中の袖萩そではぎが外垣まで訪ねて来る。
袖萩は貞任と親の許さぬ夫婦となって勘当された身の上で、今は落人となった貞任を尋ねて諸国を放浪し、泣き崩れて盲目となり、身なりも破れ汚れた着物をまとった乞食姿で、一目だけでも両親に会いたいとここに現れ、物乞いの祭文に託して身上を明かすが、直方は義家の義父であると共に義家に仕える身分でした。
 だから直方は、敵将である貞任の妻であるわが子の袖萩と名乗り合うわけにもいかない。そんな義理のため不幸な娘を見て母親は泣き続けるばかり。
すると、そこへ貞任が桂中納言と名のり、偽の勅使となって現れたのである。袖萩は夫である貞任に両親の事を尋ね求めるが、貞任は自分の素状がばれるので、
「我は、環宮を失さしめた直方処罰の首を貰いに来たのだ。まことお前が袖萩ならば親子同罪、お前からも父に首を渡すよう勧めよ」と、わざと勅使になりすまして隙を探り、そこにいる義家の命を狙っているのである。
 切羽詰まった直方は、「申し訳に」と自ら切腹してしまう。続いて袖萩も父を失い、夫には名乗り合えず、失望のあまり父の後を追って自害してしまいます。
 こうして義理人情の絡みに悲しむ真に迫った芝居に、客席の村人たちもすすり泣いて見入ってしまいます。
 それから芝居の筋は、度量の広い義家が、勅使が貞任であると見抜き、直方の身代わりになっているのは貞任の弟である宗任であると見破り、決着は戦場で果たそうと宗任と貞任の二人を追い返すストーリーだったのですが、突然、芝居はむごい事件と変わってしまうのでした。

縄に縛られた宗任  大島にある宗任の墓
縄に縛られた宗任          大島にある宗任の墓

 縄で縛られていた宗任がすっくと立ち上がるや義家めがけて走り寄ったのです。そして大声で安倍家に仇なす義家め!と、義家役の役者を本物の刀で刺したのです。「アッ、何をする座長、血迷ったか」と、一声叫ぶと血しぶきをあげて舞台中央に倒れてしまいます。
「おい、どうしたんだこれは?」
 芝居小屋にいた客人達は総立ちになって騒ぎ出し、芝居どころではなくなってしまいました。
宗任役の座長は、ほかの役者たちの止める手を激しく振りはらい、深い傷にあえぐ義家役の役者を片足で踏みつけ
去る衣川の合戦に父頼時を討った義家め、親の仇、思い知れッと言うと、手にした刀を突きさし、とどめを刺すと、大きく身震いして
皆の者、よく聞け。我が安倍家に仇なす者は皆この通りだ1いざ来い!と、今度は勅使姿の貞任役まで刺したのである。
座長は完全に宗任の化身となって暴れ出し、客席にまで飛び出します。
「わーッ、逃げろ」「助けてくれーッ」
大声を出しながら逃げ惑う観客の村人たち、座長を取り押さえようとする一座の者。それはもう、大混乱となり楽しいはずの野芝居が大混乱となったのです。
一座の者は長い棒や梯子まで持ち出し、刀を振り回す座長を舞台中央で取り囲むと、座長もようやく観念したのか豪勇、奥羽武士の最期を見よと言うなり、手にした刀を逆立て、自ら腹に突き刺して自害してしまいます。
 座長は初め、筋書き通りに芝居をしていたのであるが、劇が進むにつれて熱中しクライマックスに達すると、自分が本当の宗任だと錯覚し逆上してしまったのでしょうか。
 この事件は、無残な出来事として広く知られるところとなりましたが、一方で役者が芸に熱心になりすぎ、役にはまり込んだ芸人として気の毒な役者であると、同情する者も多かった。
 安倍一族の怨霊が座長を操ったと考え、怨霊の祟りが村人たちに及ばぬよう、事件後間もないころに安倍さまの墓が建立されたといわれます。浜窪の墓の主は、本当の宗任なのか宗任役を演じた旅芸人一座の座長なのかははっきりしていません。
 安倍さまの墓は、心の病や精神を病んだときに祈る神様として、今でも地元の人達をはじめ広く信仰されています。
また、始まりがいつかは不明ですが、毎年11月15日には、墓がある山の所有者が「安倍さま籠り」という祭りも続けられていましたが、現在は浜窪地区の皆さんの手で続けられ、地区の人々が集まってお墓に参った後、宴を催しているとの事。

貞任と宗任兄弟の存在は、この「奥州安達ケ原」の芝居によって庶民にも普及しました。

左の丘に貞任の墓が  左の丘に貞任の墓が

善応寺山の向かいにある丘の上に、貞任役者の墓が建立されたと言われていますが、現在では墓がどの辺りにあったのか、その痕跡も分からなくなっています。

安達ケ原あだちがはらとは、福島県・中通り地方に属する二本松市にある地名で、陸奥国安達郡の地名でもあり、現在の二本松市及び周辺の地名を指していたと考えられています。

宗任の怨霊が座長に乗り移った、というのはあまりにも飛躍している話だと個人的には思います。
芝居中に何かしらの事故があり、宗任役の座長と貞任役の役者が事故死したのではないでしょうか。

さて、長くなりますがどれだけ奥州安達ケ原が人気のある演目であるのかがわかる写真があります。

日田祇園の山鉾  わかりますか?
日田祇園の山鉾                     わかりますか?

上の写真は平成26年(2014)に行われた日田祇園祭の山鉾です。
外題の書かれた赤い部分の文字がわかりますか?

奥州安達原  3名の名が
奥州安達原                         3名の名が

この年、港町の山鉾の外題が奥州安達原 環宮明御殿ノ場だったのです!
山鉾の外題には有名な歌舞伎の演目を使用するのですから、いかに有名なのかがわかります。
そして、安倍貞任、安倍宗任、八幡太郎源義家とありますね~

義家 宗任 貞任
義家                  宗任                貞任

中央に宗任がおり、右に貞任、左に義家と並んでいます。
安達ケ原は要らないのかな??

貞任、宗任の2人は浜窪の悲劇をどの様な思いで見つめていたのでしょう。


協力
森園家

参考
二丈町誌/福岡県糸島郡二丈町役場
二丈町誌 平成版/二丈町誌編纂委員会
怡土志摩地理全誌 1.怡土編/糸島新聞社
改訂版 糸島伝説集/糸島新聞社
二丈よもやま話/堀田千年
福岡の怨霊伝説/伊藤篤
安倍・清原氏の巨大城柵 鳥海柵跡・大鳥井山遺跡/樋口知志・浅利英克・島田祐悦

[浜窪の安倍さま]
住所 福岡県糸島市二丈浜窪
地図



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時間があったので糸島遠征 浜窪の安倍さま 中編
浜窪の安部さま  浜窪の安倍さま

それでは浜窪の安倍さまを詳しく見て行きましょう。

手前の石積み  祠の全景
手前の石積み                       祠の全景

安倍さまと呼ばれる石祠の右手前には、石積みがあります。
元々は樹木が生えていたのでしょうか?根が見えます。
石積みの上には自然石が立てられ、榊が供えられています。
倒れた樹木?御神木?を供養しているのでしょうか?
石祠はコンクリートの基礎があり、その上に石垣が積まれ、その上に祠が立てられています。
凄く丁寧に、手厚く祀られていることが伺えますね。

近影  中は空
近影                             中は空

近づいて見ると、祠にも新しい榊が供えられ、お酒もしビールまでも供えられています。
お~~祠の扉が開いています!
資料によると、高四尺、方一尺ノ石祠ナリ。前ニ石戸アリ。銘文ナシ。古キ剣折タルアリ。狂疾アル者祈リテ応アリト伝とあり、古い折れている剣が祀られているとの事ですが。。。
祠の中には何もありませんでした。

正面の鈴  正面の紋?飾り?
正面の鈴                          正面の紋?飾り?

扉の上部には大きな鈴が掛けられ、祠の上部には家紋でしょうか?飾でしょうか?模様が彫られています。
この模様が何を意味するものなのか?家紋なのか?調べましたが私の力では何も見出す事は出来ませんでした。

右前から  右側の花立
右前から                          右側の花立

それでは右側に進んでみます。
花立には文字が彫られていまして、右側の花立の右側面に明治廿六年(1893)二月とあって、その後には吉日かと思ってましたが、写真を良く見ると違う様な(;´Д`)
それと左側にある花立の内側には明治丗四年(1901)三月とありまして、現存している左右の花立は作成された年が違うと思われます。
地震でもあって倒壊したのかな?と調べて見たが当たりでした。
明治31年(1898)8月10日の午後9時57分に福岡市西方で糸島半島のど真ん中にある日向峠ー小笠木峠断層付近の浅い地点でM6.0の地震が発生。
その約35時間後の8月12日午前8時36分にM5.8と震度5相当の地震が連続して発生しました。
特に2回目での被害が大きく、負傷者3名、全壊した家屋は7棟。
液状化現象が発生し、道路や堤防の多くが破損しました。
この糸島地震の際に左側の花立が破損したのでしょう。

右側面  左側面
右側面                           左側面

祠の右側面にも、何やら文字が彫られています。
それは寛政十年戌干天一月造立之とあります。
よって、この石祠寛政十年(1791)に建立されたと考えて良いでしょう。
裏側には何も文字はありませんでした。
そして、左側面には施主 加布里村中原吉右衛門 波多江村波多江權四郎 妻とあるようです。
加布里村と波多江村で建立する為にお金を集めたであろう、2人の名が書かれているようで、波多江村の人物の姓が波多江とあるのは庄屋とか商家ではなく農民だったのでしょうか。
そして、妻と書かれています。
江戸時代などは、一般女性の名はナカナカ記録に残らないのです。

左の花立  正面下の台座
左側の花立                         正面下の台座

左側の花立には椎葉常助とあります。
正面の石祠下にある台座部分に狛犬らしき動物が2頭彫られています。
左は口を閉じられた吽形うんぎょう右は口を開けた阿形あぎょうと神社に祀られている狛犬と同じ形態をしています。
そして、右上の写真の右端に右側の花立の内側が写っていまして、森園大吉とあります。
椎葉森園は浜窪地区で非常に多い字名です。
狛犬の前に置かれた石は何の意味があるのでしょう??

この位かな、素人の私が見て読みとれるのは。。。

祠の内部には安倍氏之墓と彫られているそうですが、確認できませんでした、、、
スマホのライトを点灯させて覗いてみれば良かった(+o+)

2023年2月17日 加筆

参考
福岡の音量伝説/伊藤 篤
ウィキペディア



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時間があったので糸島遠征 浜窪の安倍さま 前編
目的地に到着  やっと移動
目的地に到着・・いやいや                 やっと移動

さあ、やっと目的地の浜窪地区に到着しました。。。って、随分前から到着してましたから、、、
ハッキリ言って道草が過ぎました!
羅漢川の放水路・文内堀に沿って海へと北上します。

目的の山  登り口
目的の山                          登り口

文内堀の左岸を海へと歩いて行きます。
そこから川の対岸に小高い山があります。
その山が本来の目的地なのです。
この山は善応寺山と呼ばれ、善應寺山と表記される事もあるようです。
山の名前の通り、かつてはお寺がありましたが現在は畑や林となています。
山を削った跡の擁壁の隙間に山の上へと行けそうな階段がありました。

登る  何か見えて来た
登る                              何か見せて来た

1人で歩くには十分の道幅がありますね。
ただ、足元はブロックや石が敷かれていますがチョット危なっかしい感じでして。
それでも、不釣り合いな位に立派な手摺が設置されていて安全は担保されています。
登って行って道に沿って右に曲がると立派な石段に変わりました。
そして、何やら景色が変わってきまして、何か見えてきました。

お~~  浜窪の安倍さま
お~~                            白杭には・・・

道の左側にある手摺の向こう側に木製の白杭が見えてきました。
そこには浜窪の安倍さまと書かれています。
そう、ココが糸島遠征の目的地だったのです!

浜窪の安部さま
浜窪の安部さま

安倍さまとはあの奥州、現在の岩手県で永承6年(1051)~康平5年(1062)に前九年の役といわれる戦いで朝廷と戦った安倍氏の安倍宗任あべのむねとうのお墓といわれる祠なのです。

今回は、久しぶりに安倍氏のお話となります。

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伊万里・松浦編 6
「そこは行けないよ~~」と声を掛けて頂いた奥様方に今福神社への道を教えて頂けました。

松浦鉄道の踏切を渡って進みます。

踏切を渡った先  裏の参道

程なく、右側の神社入口→の看板が見えてきました。

石段を登る  境内に到着

汗で額がわずかながら濡れて行くのを感じながら石段を登っていくと、、、境内にたどり着き本殿が見えます。

今福神社本殿

今福神社本殿です。何かしらの力を感じる本殿です。

鳥居と案内看板  案内看板

それによると
応徳元年(1084)滋賀県多賀の大明神の分霊を勧請し、松浦党々祖久公が
ぎぎが浜上陸後、今福神社において年を越されましたので歳の宮と言われました。
その折、村人たちが梶の葉の上に3個の餅を乗せて、久公の前に捧げました。
それで梶の葉の家紋を使用するようになったと伝わっています。

とあります。

ぎぎが浜とは、今福神社からみると北北東に約1.5km先にある海岸で美しいポイントです。
実は日本最西端となる鳴き砂の浜だそうです。

まつうら観光物産協会のホームページによると、、、
延久元年(1069)嵯峨天皇第18代の皇子、河原左大臣源融第八世の孫源久が、御厨検校となり、検非遣使に任命され、今福のぎぎが浜に上陸しました。
松浦党の党祖・源久公がこの浜に上陸したときに、輿「こし」のきしむ音が砂に伝わって「ギイギイ」と鳴ったことからこの名がつきました。

とあります。

そう、一般的には松浦党の祖とされているのは、源久みなもとのひさしとされています。
そうです、松浦党の歴史が始まったのが、この今福の地だったのです!

ココに橋があったようで  下は松浦鉄道の線路

境内をウロウロしていると北側に本来の表参道らしき道が。
ひょっとしたら行けるかな?と思って行ってみると、、フェンスが行く手を阻んでいました。
奥様方の注意喚起は本当でした(*´з`)
フェンスから下を覗き込むと松浦鉄道の線路が見えます。
昔は橋があったんでしょうね~こりゃ、渡れません。

境内に戻る  今福駅が見える

境内に戻っているとディーゼルエンジンの音が聞こえてきました。
足を延ばして望むと今福駅が見えました。

ん?なんだと  人柱踏切!!

今福神社をあとにして、駐車場に向かいましょう。
当然、松浦鉄道の踏切を渡るワケなんですが、、、ん?
ある文字が私の目を釘付けにするのです。その文字は、、人柱
この場所って人柱っていうの(;''∀'')

調べてみると、約300年前の江戸時代。ここは海が入り込んだ干潟だったそうで、その干潟を埋め立てして新田開発を始めました。
堤防を築き埋め立て工事をしますが、何度も堤防が崩壊して工事がはかどりません。
領主の松浦信貞の家臣で工事監督の田代近松は住民を集め、海の神様を慰めるために誰か人柱となってくれぬか、、と相談をするが誰も申し出る者はいませんでした。
困り果てた近松は「お互いに着けている袴に横ぶせをあてている者があればこの犠牲者と定めよう。」と提案しました。
住民も従い皆の袴を調べたところ、横ぶせをあてたものは近松だけだったのです。
田代近松は生きたまま堤防に埋められ人柱となったのです。
その後、工事は近松の犠牲によって新田開発は完成したそうです。

色々な歴史が残っているんですね。

今回で伊万里・松浦編は終了です。
さて、また松浦には来ねばなるまい。

[今福神社]
住所 長崎県松浦市今福町東免68
地図





伊万里・松浦編 5
さてさて、淀姫神社を訪問しましたが、それより遡る事約6時間。
私は日田から車を飛ばし、伊万里市に到着しました。

MR伊万里駅ホーム

で、松浦鉄道のMR伊万里駅をブラリと。何故かといいますとMR伊万里駅には伊万里観光協会が入ってまして、伊万里市の情報収集にもってこいなんです。

伊万里市にはMR(松浦鉄道)とJR(九州旅客鉄道)の伊万里駅がそれぞれあるのです。国鉄・JR時代の松浦線から昭和63年(1988)に第三セクター松浦鉄道・西九州線に転換された後も、接続しているJR筑肥線との相互乗入列車も存在していました。
しかしながら、自動車時代の波に鉄路は飲み込まれます。平成14年(2002)、伊万里駅付近の再開発により、新駅舎が完成。
線路を道路が切断する形となった為に、線路は分断され駅舎も松浦鉄道とJRの2つとなったのです。

MRからJR側を見る  伊万里駅前バス停

MR伊万里駅を出て、伊万里駅を分断する佐賀県道240号伊万里停車場線に出ます。
すると、目の前に伊万里駅前バス停があります。
正面に見えるのがJR伊万里駅です。

松浦駅行き西肥バス  今福?

すると、1台のバスがやって来ました。松浦駅前行きの西肥バスです。
行き先表示を見て、目に留まった地名がありました。
それは今福でした。
何か調べたから目に留まったのではありません。何故か頭に残ったのです、今福の文字が。

伊万里から松浦に向かっている時に、今福の場所がおおよそ把握できたので、帰りに時間があれば立寄ってみようと決めていました。

今福駅入り口  道路沿いに立っている

国道204号線唐津街道を松浦市中心部から東へ伊万里方面へ向かいます。今福交差点を直進して長崎県道146号上志佐今福停車場線に入ります。今福駅は右、の看板があるところを指示通りに右折すると、正面に今福駅が見えてきます。
で、今福駅へと繋がる道の傍に立っている街路灯には今福は松浦党発祥の地と書かれた看板が。
へぇ~そうだったのかぁ~

今福駅駅舎  道しるべ

今福駅舎に近づいて来ました。今福の読みはいまふくではなくいまぶくなんですね~
駅舎の右には今福ふるさと道しるべと書かれた道路マップがありました。

ホーム  駅名標

ホームにも何やら看板があるようなので、ホームに行ってみる事に。
ホームに立っている駅名標には今より福の生ずる処とあります。

松浦鉄道案内看板

駅名標の右に松浦鉄道が作成したであろう今福駅周辺案内MAPがありました。
ふむふむ、今福駅から歩いて3分位、距離にして272mのところにある今福神社に行ってみる事にしましょう。

長崎県道146号上志佐今福停車場線を松浦方面に少し戻ると川を越える橋があります。渡り切って直ぐに左へ鋭角に切り込んで曲がります。

今福神社参道  注意喚起看板

直ぐに今福神社の参道が分かりました。車を道路横の駐車スペースに停めて石段を登ろうかと思ったところ、三角コーンでバリケードが作られているような。
そして左側には気になる看板が。
跨線橋が老朽化しており、現在通行ができません。当分の間、裏の参道をご利用下さい。
ん?行けないの?とりあえず、行けるかどうか確かめてみよ、、石段を進むか・・・と思っていたところに背後からオバチャンが「そこは行けないよ~~」と大声が聞こえてきました!
え~~マジで(;´・ω・) 神社には行けないの?
裏の参道とか知らないし・・・

[今福駅]
住所 長崎県松浦市今福町東免
地図